1 ぜんまい仕掛けの春

         2 バウムクーヘンのブラッキーな味わい

         3 両国 トマソン・フィーリング

         4 バウムクーヘンの量子力学的味わい

     


     ぜんまい仕掛けの春

   

 しかし「ぜんまい」なんて最近では死語ではないだろうか。いま辞書を引いたら「発条」と出ていた。バネ、ですね。「時計や玩具の動力に使う」とある。
 いまどき。
 ぜんまいを巻く時計というのはあるのか。ぜんまいで動く自動車やロボットなんていうのは。
 なんか高級腕時計でぜんまい式というのがあると聞いたような気もする。
 しかし昔は全部ゼンマイでしたね、時計は。置き時計とかは裏側に本体ムーブメントを動かすゼンマイと目覚まし用のオルゴールを鳴らすゼンマイとが二個、ついていた。そして二日とか三日使用すると、というか動かしているとぜんまいは緩んで時計は動かなくなるので、定期的に時計を引っくり返してネジネジとぜんまいを巻く。という作業が日常の重要な業務としてあった。時計を巻く、というのはある意味ひとつの儀式にも近いものがあったのではないだろうか。
 プラモデルなんかの車でもそうでしたね。タイヤを押さえてジコジコとゼンマイを巻いて、さあ、というかんじで床に置く。手を離すと「びゅーんっっ」とゆうかんじで疾走し、向こう側の壁に当たってばぁーんとひっくり返る。なかなかにはげしいと云えばはげしいかんじのする。この辺ちょっとかんじが多くなってますがそういうかんじ。
 ぜんまいというのは今の小中学生なんかは知っているか。
 だいぶ前から時計は電池のクオーツ式がほとんどになっている。
 おもちゃも動くものはもう電池でモーターだろう。
 考えてみれば味気ないですね。そうではないですか皆さん。いや、皆さんがゼンマイを知らないというならそうは感じないでしょうが。いや、その場合は皆さん自身が味気ないと云うか。いや、そういうことは云っちゃいけませんがね。

 味気。という言葉にはこだわりたい。いや言葉というか、味気というものに。
 この時代、ますますなくなっていくものは「味気」ではないか。
 テクノロジーが進み、人類社会に普及する軽薄短小の度合いがますます深まる。軽薄短小、言い換えれば「便利さ」というものですがね。自動車はオートマに。カメラは押すだけに。アナログディスクはCDに。正月は休みだった商店はコンビニに。
 便利になると人はワガママになりますよ。自分の思う時に思うものを手に入れないと気がすまず、ストレスとなり、それがやり場のない怒りになり、幼児が人を殺す。
 いや、まだ幼児が殺人をおかしたという話は聞いた事がないが、まぁ、やがてはね。
 そんな便利一辺倒に進むかに見える社会にも、なかには良識というか、しかるべきというか、まだすくいようのあるムーブメントもなくはない。
 懐古趣味、というわけではないがアナログの再評価と云うか。ちょっと前まではかなり激しかったらしい中古カメラブームとか、アナログディスクはまだまだ人気が持続してますよね。そういう趣味的な世界でわざわざ手がかかるものが価値を認められている。
 っていうか、もともと趣味と云うのが経済的生産の主流から外れた、意味のない行為をわざわざ手間をかけて行なう。ということに意味を置くことなんですが。
 中古カメラと呼ばれる金属製マニュアルカメラは、しかるべき人が扱えばオートのカメラと同等か、それ以上の写真を撮ることが出来る。アナログディスクも、しっかりとした録音の上で作られていれば最高音質のCDよりいい音がする ……まぁ、これについては針が溝を擦るという特性上、おおむね十回目くらいまでだというのが定説だが。針が音溝を削っちまうんですよね。
 といったように、不便なものがすなわち性能が悪い。ということにはならない。
 といいますか、それまでそれなりの手間をかけて扱われていたものが、一般大衆ピラミッドの底の方まで普及させるべく進んできた結果、ある部分で性能を犠牲にしてきたということがある。ましかし、その結果すべてのひとがテクノロジーの成果を自由に使えるようになり、すべての人が特権階級に成った。すべてのひとが王様になった。王様だから人を殺してもいい。
 いや、そういうことでわないが。まあね。

 ぜんまいの味気、とはなんだろうか。
 それは多分、停止の味。ではないだろうか。終焉の無常観。終わりのはかなさ。
 ある意味、自分の力でコントロールできずに止まって( 終わって )しまう無力感、みたいなもの。
 モーターだって電池がなくなれば止まるだろうですと? いやあなた、モーターで歩くロボットを、電池が切れるまでずーっと動かし続けて、それを見守る図。っていうのは、ちょっとまたちがった、病気といった部分が感じられて、それについてはちがう語り方が求められるのではないか。
 いや、ぜんまい仕掛けのおもちゃが、ぜんまいの力が緩みきって止まるときの、あのじわじわっとした動き感はなんともいえないものがありますよ。
 終焉の無常観、と書きましたが、諸行無常。どうしても力が及ばずにそれに逆らうことが出来ないもの。以前はそういうものが身近にいろいろとあったものだが。まあ、コンビニでなく正月のお休みの商店とかね。ものを買いたくてもない。或いは夜中にお腹が空いても売ってる店がない。
 しかし時代は前進し、無常は後退した。これからもそういう方向では留まる事を知らず、突っ走っていく事になりそうだ。

 その中で究極に残る諸行無常というのが、人の命ではないだろうか。個体の生命には限界がある。老化を止める事は細胞の性質、というか構造上できない。いや、まだできないらしい。
 だがやがて、人類の科学技術は老化を止め、るか、クローンに意識を移植する手段を開発するか、或いは意識を肉体から解放するか。まぁ、そういった形で不死を実現する時代が来るかもしれない。
 思うに、そうなってようやく、諸行無常の、味気の神髄といったものが理解されるのではないだろうか。
 個体の不死が実現されたらもう、宇宙の終わりまでの気の遠くなるような時間が手に入るんですからね。その間に何をしようと、まあ、大体の事はできるのではないか。
 で、そのような存在に永遠の生命の途中で死を執行するとする。まあ、なんらかの行いに対する刑罰とか、そういうニュアンスの結果としての個体の死。消滅。これは恐いでしょうね。永遠に約束された人生が終わってしまう。それまで考えもしなかった無常の意味。
 そこに至って初めて、人類はその発生以来最高の味気を痛烈に味わう。
 思えば人生の味なんていうのは、死ぬ瞬間にようやく味わえるもんかもしれない。
 美味しく味わいたいもんですな。好きな事にぜんまいをギリギリと巻き続けて。日夜。

                                   by  草原 遙


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